王子


「な…何やってるんですか!?」

 思わず発してしまった声量に、我ながら驚いて口を塞いだ。
声を掛けられた相手も、吃驚した表情で顔を上げる。何度か、目をぱちぱちと瞬かせて、にこと笑った。
「…んだ。おデコくんか…。」
「何だ、じゃあないでしょう、牙琉検事。」
 呆れた表情をつくってやると、眉間に皺を寄せる。
 明らかに、頭の中に疑問符を浮かべた男を前にして、王泥喜は広い額に片手をあて頭を左右に振った。本当は、両手で頭を抱えたい心境だったのだが、生憎ともう片方の手は塞がっている。
 何故なら、傘という日用品を使用していたからだ。そう、空模様は雨。
 日中から湿度の高い不快な一日だったが、夕刻の時間になると、雲も水分を貯えておけなくなったらしい。
 降りはそれほど激しくはないけれど、傘無しでいられるほど霧に近いものではない。その証拠に、無防備な牙琉検事の全身はしっとりと濡れそぼって、いつも肩口で綺麗に巻かれていた髪は解け、背中に流れ落ちていた。
 王泥喜に指摘され、初めて自分の服に触れた指先は湿り気を感じたようで、改めて空を見上げる横顔に、王泥喜の心拍数が上がる。
 綺麗な顎のラインに添って流れ落ちる水滴は、やけに艶めかしい。降り注ぐ透明な粒に碧瞳を細め、心持ち口唇を開ける。情事を思わせる表情には、知らず心臓が鳴っていた。
 そうして、艶っぽい表情のまま王泥喜を振り返り、ポツリと呟く。
「あ…ホントだ。」
 ガクリと王泥喜の角は垂れ下がった。紛れもなく本音だろうと推測出来るのが、この人らしいと言えばそうだけれど。
「…………そうですか…もっと早く気付いて下さい。」
 全くなんだろう、この無防備さ。
 王泥喜は腕を伸ばすと、事務所にあった(少しだけ端が捲れ上がった)傘を牙琉検事に差し掛けてやった。ポツポツと傘を鳴らす雨粒を聞き、結構降ってるんだね。などと、呑気な答えが返ってくる。
 そうして、腕を伸ばして自分の方へ傘を寄せてくれているのだと気付き、当然の様に僕が持つよと柄を掴んだ。触れあった指先が冷たくて、王泥喜は顔を曇らせる。
「ずっと、(ひとり)で実況検分やってるんですか?」
 ひとりを強調してやると、極まりが悪そうに視線を逸らす。
 検事が、たかだか刑事事件で現場へ足を伸ばす事など皆無だ。
 幾つか裁判をこなしてきた経験上、現場の刑事からの報告を受けるだけで法廷へ望む。それが普通らしいと王泥喜も知っている。
 それは、つまり、現場の刑事に逃げられたって事だ。
「…理由聞いてもいいですか?」
「お察しのとおり、刑事君を怒らせちゃってさ。早退届を叩き付けられた。」
 
 …ああ、茜さん。

 この現場に来る前にいた成歩堂事務所で、カリントウを喰む音をしっかりと聞いていた王泥喜は額に汗する。職場放棄。本来なら厳罰だろうこれは。
「…いいんですか? その…。」
「真っ直ぐで、はっきりしてて、嫌いじゃあないよ、僕はね。」
 あっさりと言う様子が、まるで姫君の窓辺でひとり愛を謳う王子さまだ、などと思い立つ。固く閉ざされた窓になお向かい合い、諦める事もせずに歌い続ける。きっと、昔みた映画のワンシーンに違いない。
 同時に、深窓の王子さまみたいに、人の汚い部分を見ない訳でもあるまいし、どうしてここまで純粋でいられるのだろうかと不思議になる。

「でも、おデコくんは何故、此処に来たの?」
 明日の公判、弁護士は君じゃないよね?そう問い掛ける牙琉検事に、王泥喜は苦笑いを返す。
「…宝月刑事が、現場に忘れ物をしてきたから取りに行けって言ったんですよ。」


 事務所のソファーに陣取ると、カリントウを何かの仇みたいに食べていた宝月刑事は、雨が降り出したのを見て王泥喜にそう命令した。
「自分で取りにいけばいいじゃないですか、何で俺が…。」
「色々あるのよ、大人には。いいから黙ってアンタ行って来なさいよ。ホラ、かりんとうあげるから!」
 何だその理屈は。俺だって立派な大人だ。
「嫌ですよ、そんな何だかわからない忘れ物なんか!」
 真っ赤な顔で菓子袋を押し付けてくる茜の不条理な命令から逃れようと助けを求め周囲を見回す。成歩堂がぷっと吹き出して『行ってあげなよ』と声を掛けてきた。
みぬきちゃんまでもが背中を押すものだから、王泥喜はこうしてやってきて、彼女の『忘れ物』を見つける事となったのだ。

 水も滴る王子さま。

「やっぱり良い娘だね、刑事くんは。」
 一瞬驚いた顔はしたけれど、クスクスと楽しそうに笑う。そして、同意を求めるように、視線を王泥喜に移した。
 余り大きいとは言えない傘の中に寄り添っているのだから、距離は近い。おまけに、ボタボタと雨漏りがするものだから、抱き合ってでもいないとどちらかの肩は濡れてしまいそうだ。少しだけ締め付けてくる腕輪の緊張は、自分なのか牙琉検事なのか、王泥喜にはわからなかった。
 前髪も濡れて額に張りついているものだから、余計に視線に困り、王泥喜はズボンのポケットに入れていたハンカチを取り出す。牙琉検事は自ら顔を差しだして来た。
 甘え上手は、やはり彼が弟だからなのだろうか? 閉じられた瞼がキスをせがんでいるように見えるぞと欲望が不服を唱える。
「困った時に助けてくれるおデコくんは、王子さまみたいとか思っちゃたよ。」
「お言葉ですが、牙琉検事は困ったようにも見えませんでしたけど。」
 人の気も知らないでやたら楽しそうだから、嫌味のひとつも言いたくなる。
 女の子に優しいのは知っているけど、こんな目にあっても気にならないなんて、勘ぐってしまいたくもなるというものだ。
 なのに、牙琉検事は口を尖らした。
「そんなの、おデコくんが向かえに来てくれたんだから、嬉しいに決まってるだろ?」
とんでもない不意打ちに、王泥喜は目眩を感じた。感じただけではなくて、本当に足元がふらついたらしい。牙琉検事が慌てて傘を差し掛けてくれる。
 相合い傘は、二人の身長差も手伝って、大きく王泥喜の方へ傾いて、まるで想いの差を示されたようで、王泥喜はままならない恋心を呪った。

…どうして、こんなにこの人が好きなんだろうなぁ、俺。

「とにかく、王子さまは相応しい人を知っているんで、此処はHERO呼びでお願いします。」
「異議あり。おデコくん、意外と君、我が侭だね?」

 そんな事あるものか。この可愛くて、艶っぽくてどうしようもなく食べてしまいたいこの人を、このままお持ち帰りしない自分は、誰よりも我慢強いに違いないのだ。
 成歩堂事務所へ向かう事を提案しながら、王泥喜は腹の中でだけ異議を申し立てた。

〜fin



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